はろの毎日

日々の成長

はろペン自伝 3部 その8

第9章「高校生時代(18歳)Bパート」

俺は焦っていた。2年生の夏休みから進学に進路を変更したものの、そこから半年間、俺は自分の行きたい大学はおろか何をしたいかすらまだ決めていない状態だったのだ。もうすぐ3年生になろうというのにこのままではマズい。かといってやりたいことが全く思い浮かばなかった俺は日に日に焦燥感に追われるのであった。

工業生であれば工業の大学に行くのが道理というやつだ。事実、俺以外の進学者は全員「~工科大学」や「~工業大学」と名のつく大学へ目標を定めていた。しかし、俺は出来ればもう二度と工業には関わりたくなかったのでそういった大学には一切目を向けないようにしていた。福祉、経済、宗教...工業以外の道を見つけようとしたもののどれもいまいちピンとこないものばかりだ。半ば諦めかけていた俺はこの時偶然「T海大学 K洋学部」のオープンキャンパス情報を知ったのだった。

「T海大学 K洋学部」は静岡県内にあり、日本でも数少ない海について研究する学科だ。そのため、県内でもかなりの知名度を持っている。そんな大学のオープンキャンパスが3月に行われるというのだ。ヤケクソ気味だった俺は何も考えずそこへ行ってみることにした。一応ママペンにだけはこのことを伝えておいた。

そして当日、やはり知名度が高いだけあって多くの学生が見られた。オープンキャンパスというよりはちょっとした学園祭のような感じで、親御さんの姿もちらほらあった。校舎はボロッちいものの、雰囲気はまずまずといったところだろうか。俺はとりあえず9つある学科がそれぞれどういった研究をしているのか聴いてみようと思った。

様々な学科説明を聴くなかで俺は「海洋生物学科」というものに興味を持った。そこは名前の通りイルカやクジラなどの海洋生物を調査する学科だ。恐らく「K洋学部」と聞けばほとんどの人が真っ先に思い浮かぶ学科だろう。そのためか例年全学科の中でも倍率がずば抜けて高いらしい。

このオープンキャンパスを通して俺は初めて自分自身の将来像が浮かび上がった。妥協して工業大学に行くよりイチかバチかでこの道を選択するのもアリなのではないか?帰ってきた俺は早速両親にそのことを報告するのであった。

ママペンは「はろペンがやりたいと思ったことなら止めないよ」と一言。一方パパペンはというとなんだか険しい表情をしていた。それもそのはず、それまで工業を勉強していた息子が突然海洋について学びたいと言い出せばそうなるのも当然だろう。ただそこで根負けしてしまえば全てがパーになってしまうので俺はそれまで自分が考えていたこと、自分の将来についてなどを余すことなく全て話した。

結果両親の承諾は得た。あとはそれに向かって勉強するのみ...なのだがここで俺は大きな失態に気づいた。K洋学部のAO、推薦入試における試験科目の中に「生物」が含まれていたのだ。3年の授業は各自進路にバラつきがあるため、それに合わせて事前に受けたい授業を選択するのだが、その時の俺は生物なぞ選んではいなかった。今更変更なんて出来るはずもなく、俺は独学で勉強せざるを得ない状況に陥ってしまったのだった。

第9章「高校生時代(18歳)Cパート」へ続く

はろペン自伝 3部 その7

第9章「高校生時代(18歳)Aパート」

「春」といえば出会いと別れの季節であり、特に3月は後者の印象が強いだろう。期末テストを終え、もうすぐ春休みを迎えようとしたそんな時、俺はある一大コンテンツと不覚にも遭遇してしまったのだ。そしてこの出会いが後に俺の人生観を大きく変えていくということをこの時の俺はまだ知る由も無かった。

ある日、東京で一人暮らしをしているアニペンからLINEが来た。来たとは言っても俺たち2人はしょっちゅうくだらないことで会話をしているので別に驚いたわけでは無いのだが、この日送られてきた文章を読んで俺は自分の目を疑った。

「プリチャンやりたい」その一言で俺は「は?」と思った。どうやらその日アニペンはイオンでバイトをしていたらしく、休憩中に偶然訪れたゲームコーナーでプリチャンなるものをプレイしているユーザーを発見したとのことだった。

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「キラッとプリ✩チャン」とはタカラトミーアーツシンソフィアが共同開発したアーケードゲームであり、またそれを原作としたTVアニメのことである。社会現象ともなった「プリパラ」の続編と説明した方がわかりやすいだろうか。これ以上のことを説明しようものなら恐らくパートWくらいまで続いてしまうので、もし気になった方は是非自分で調べていただきたい。一つ言っておくと、「プリパラ」についてはまた触れるので楽しみにして頂けると嬉しい。

俺も女児アニメは一通り視聴しているキモオタなので、それがどんなアニメでどういったゲームなのかは大まかには分かっていた。しかも中3の時「アイカツ!」をプレイした経験もあったため、女児向けDCD(データカードダス)をプレイすることがいかに恥ずかしいことなのか俺は重々把握していた。アニペンのその一言に対する俺の返事は「絶対やらん」だった。

数日後、アニペンが帰ってきた。まだそのことを覚えていたアニペンはどうしてもやりたいと懇願してくるので俺は渋々近所のアピタへ向かうのだった。

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(写真は後日撮影したものです)

時刻は19時半くらいだっただろうか。そんな時間にはおもちゃコーナーにも当然ちびっ子達はいないのでとりあえず一安心といったところだった。面倒だったのは筐体を目前にしたアニペンがこんな時になって緊張で固まっていることだった。見てられなかった俺はこのまま不審者に見られるのも嫌なのでアニペンの財布から100円を抜き取り、筐体へ投入するのだった。

「プリチャン、オン・エアー!!」静けさ漂うおもちゃコーナーに響く声。そのあまりの大きさに俺はゾッとした。ちなみになぜこの手のゲームの音量がデカすぎるのかというと、本来の対象ユーザー(これなら女児)が多くプレイする時間は昼間であるため、音量をうるさいくらいに設定しておかないと賑やかな周りのノイズに筐体の声がかき消されてしまうからだ。台の高さも女児向けにしてあるため、大人がプレイするには膝を地面につけなくてはいけない。そこそこ身長の高い青年が2人で女児ゲーをプレイする姿はまさに不審者そのものであっただろう。

自分のアバターを作り、ライブをしてコーデをゲットする。最初は嫌々やっていたが、やってみると意外と楽しいものだった。俺がもともと音ゲーが好きだったのもあるだろうが、作りこまれたCG、その辺のスマホゲーにも劣らない演出、そしてプレイ終了時に排出される「プリチケ」などなど。絶対に自分からはやらないだろうが、アニペンがまた頼んできたならやってもいいかなとは思うようになった。

しかし、その日からアニペンは毎日俺を誘うようになった。頼んできたならいいとは思っていたものの、流石にこれはしつこすぎだ。...まぁ、アニペンの出費だったので仕方なく行ってやったのだが。

当時、6弾では初音ミクコラボがやっていたので俺は当面の間その限定コーデを揃えることを目標としていた。しかしこれがまたなかなか出てこないのである。いつの間にか俺は自身の会員証も作り、1人でもプレイするようになっていた。一度決めた目標は絶対に遂行する。そしてそれが終わればもう二度とこんなゲームはやるもんか。俺はそう自分自身に思い込ませ、プレイに没頭するのであった。

これがまさかあんなことになるとはね...

第9章「高校生時代(18歳)Bパート」へ続く。

はろペン自伝 3部 その6

第8章「高校生時代(17歳)Dパート」

最初は上手くいかなかった部活動も1年近くやっていればそこそこ上達はするもので、いつの間にか俺は道場へ行くことも苦ではなくなっていた。ただ、例の副顧問だけはどうしても慣れることが来なかった。

1年生の3月、もうすぐ2年生になろうとした頃、弓道部にビッグニュースが舞い込んできた。”副顧問の転勤”本来ならば悲しむべきニュースなのだろうが、俺は心のどこかでガッツポーズを挙げてしまった。恐らくほとんどの部員もそうだっただろう。そんなワケで、2年生からは新しい副顧問がやってくることになった。

新しい副顧問はなんというか「無」な人物だった。その先生は坊主頭に眼鏡という昭和チックな見た目から一部で「日本兵」なんてあだ名が付けられていた。まぁ、考案者は俺なんだが...担当はJ科かつ新1年生の担任だったので俺と関わることはほとんどなかった。弓道に関しては素人らしく、以前の副顧問と違ってツベコベ口出しはしてこなかったので俺は安心した。

2年生になるということは当然1年生が新たに入ってくるということで、この年からついに俺は先輩の立場となった。むさ苦しい道場に華が欲しかった俺たちは女子を積極的に勧誘したのだが、結果として入ってくれた女子はわずか2人だけだった。それでもいてくれるだけありがたいというもので、下心丸出しの一部先輩方は気持ちの悪い笑みを浮かべていた。

一方男子はというとなんと俺たちより遥かに多い20数人が入部してきた。中にはチャラそうな奴もいたので中学時代の経験から舐められないか俺は少し不安だった。

先輩たちはその後すぐに引退し、新体制となった弓道部。後輩の指導に日夜励む俺たちはいつの間にか夏休みを迎えていた。

去年まで地獄だった夏休みは意外となんてことなく、俺は改めて自分の成長を実感した。アイツ(副顧問)の有無でこうも部活のモチベーションが変わるもんかとも思った。先生は総体があったようでなかなか練習には来れず、俺たちが主導になる日も少なくはなかった。ちなみに部長は同じF科のT賀だ。最初はやたら先輩に媚を売るヤツという印象が強かったため、とにかく苦手だった。ソイツが部長に任命されたことを知った時はどうせ先輩たちの忖度があったんだろうと思っていたほどだ。いや、”今でも思っている”の方が正しいか。

2年生で同じクラスとなり、出席番号も俺の後ろだったT賀は何かと関わることが多く、実習やらクラス活動を通して俺はソイツのことを少しだけ認めるようになった。なによりT賀はBAKA頭はあまり良くなかったので、そっち方面でマウントを取れたことが俺が認めた大きな要因だろう。

そこからどうってことのない毎日を送ることで、俺は学校生活より部活動の方が楽しいと思うようになった。去年まで正反対だったのにネ。副顧問がいなくなったのもそうだが、一番の原因は学校生活がクソになったことが考えられる。前回も述べたが陰キャだらけで言いたいことも素直に言えないF科生活より、馬鹿をやっていられる部活動の方が非常にやり易かったのだ。俺がそれを実感したのは年があけてすぐにあった合宿だ。

去年合宿が無かったことは3部7章後半で触れたので割愛する。俺たちにとっても後輩たちにとっても初めてだった合宿は練習時間こそ長かったものの、今振り返ってみればそこまで悪いものでは無かったのかもしれない。はっきり言えるのは、修学旅行よりは遥かに楽しかったということだ。俺の会話量も合宿の方が圧倒的に多かった。特に入浴時、色々あって一丸となっていた当時の弓道部は先輩後輩分け隔てなく馬鹿な話で盛り上がっていた。

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フォルダに当時の写真があったので貼っておく。なぜこの瞬間を撮影したのかは覚えていない。

そんな感じで1年はあっという間に過ぎていった。2年生の生活はクソみたいな時もあったが、その分楽しいこともあったので点数をつけるならおよそ及第点といったところだろうか。

第9章「高校生時代(18歳)Aパート」へ続く

はろペン自伝 3部 その5

第8章「高校生時代(17歳)Cパート」

夏休みを終え、気付けば2年目の文化祭が目前となっていた。去年は階段装飾しかできなかったが、この年からは各クラスでやりたいことを自由に提案できるようになった。俺はとりあえずアニメの文化祭っぽいことが出来れば何でもよく、皆から色々意見が出た中で決まればいいなと考えていた。忘れてる人もいるだろうが、俺はまだアニメのような高校生活を送るという野望を完全には捨てていなかった。

話し合った結果、クラスの出し物は「縁日っぽいもの」で採決された...正確には特に話し合ったワケではなく、俺一人が提案したものがそのまま採用されたという感じだったが。俺は文化祭や体育祭のような大きな行事は積極的に取り組む性格なので、数少ない協力者とせこせこ装飾作りに勤しむのであった。余談だが、俺たちが一所懸命作業に従事していれば、やる気の無い奴も多少手伝ってくれると俺は思っていた。が、感情の無いロボット共はそんなこと目にもくれないのであった。

結構夜遅くまで残る日も多かったが、なんとか無事文化祭までには作業を間に合わせることが出来た。若干幼稚なデザインではあったが、それもまた味というやつだろう。写真が無いのが残念だが、俺は同じ弓道部のT賀とS藤とマスコットキャラ「ダンボー」の着ぐるみ?を作っていた。

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知らない人もいるかもしれないので少し触れるが、「ダンボー」とはあずまきよひこ先生の漫画「よつばと!」に出てくるロボットのことである。

文化祭は大きなトラブルが起こることなく、いい感じで終わらせることが出来た。俺や作業に徹していた人は達成感に満ち溢れていたのだが、全く協力してこなかった連中が盛り上がっているのを見て、俺は複雑な感情が沸いた。

ツマンネー学校生活はさらにヒートアップしていく。文化祭が終われば待っているのは修学旅行だ。俺はこれほど待ち望んでいなかった修学旅行は初めてだった。班員に仲のいいK心、T田を迎えるもホームルームデーで付いてきたK心の連れがまた俺のストレス要因となったのだ。

普通、修学旅行の夜といえば男子は騒ぎだし、女子は恋バナに華を咲かせることだろう。だが俺の班、主に俺の初日の夜はそんなイベントなど発生しなかった。同じ宿泊者であったT優と俺は接触を試みるも、無口なそいつはうんともすんとも言葉を返してくれなかった。会話のキャッチボールというよりはドッジボールという方が正しいだろうか。結局その晩はお互い会話という会話を一切しなかった。ちなみに翌日、寝坊し朝食に遅れた俺たちは先生の電話で起こされるのであった。

翌日は半日かけて博多市内を散策した。街自体はとてもよかったのでまた機会があれば行ってみたいと思う。出来れば1人で。

個人的に嬉しかったのは俺の大大大好きなアニメ「ゆゆ式」の舞台「福岡女子高校」をこの目で見ることが出来たということだ。もっと近くに行きたかったのだが、班員が興味なさげだったので諦めた。

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これはキャナルシティで撮った写真だ。

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この後俺たちは広島へ行った。駅に降りて早速向かったのは紅葉饅頭で有名な厳島神社だ。ここもまた綺麗な場所だったので、また機会があれば行ってみたい。出来れば1人で。

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それまで班員全員を盛り上げるため様々なフリを回してきた俺だったが、一切リアクションを取らない連中に俺はとうとう吹っ切れた。なぜ無口なそいつらの為に俺が無理して盛り上げなくてはいけないのか?この辺りから俺は単独的な行動を取るようになった。

この晩はK心と一緒の部屋だったので色々話ができた。やっと修学旅行っぽいことが出来たと思った。

翌日は原爆ドーム松江城に行った...これはもうどうでもいいね。この日最後の夜を迎えた俺たちは班員全員が1つの部屋に泊まった。例によって会話が盛り上がったのは俺、K心、T田の3人だけなのだが。

そして修学旅行最終日、やっとこの日を迎えることが出来た俺は喜びでいっぱいだった。最後は出雲大社に行ったのだがそんな記憶などもうない。俺はいつ帰れるかで胸がいっぱいだった。そして午後、ついにその時はやってきた。やっと家に帰れる!俺はこの時始めて純粋な笑顔を浮かべた。

こんな感じで俺の波乱に満ちた修学旅行は幕を閉じた。個人的に一番いい意味で印象に残っている出来事は事前にU-NEXTでダウンロードしておいた「交響詩篇エウレカセブン」をバス車内で一気見したことくらいだ。あの時間だけは良かった。

高校生時代(17歳)Dパートへ続く

 

はろペン自伝 3部 その4

第8章「高校生時代(17歳)Bパート」

突然だが皆さんは企業を選ぶ際、何を重視するだろうか?

ほとんどの人が給料、もしくは休日と答えるであろうその質問に対する俺の答えはただ1つ、「やりがい」だ。俺自身、いくら福利厚生に恵まれていようとその仕事が楽しいと思えなければ駄目だと思っている。今でもその思想はブレていない。当時の俺はそれが当たり前の事だと思っていたのだが、クラスの皆は違っていた。

バンダイを否定され、いくつかの企業を紹介された俺だがその中にピンと来るものは一切と言っていいほど無かった。カギ校は県内各地から求人が殺到するので優良企業も数多く記載されていたのだが、将来自分がそこで働く姿を想像すると吐き気がした。そしてそんなことを気にせずなんとなくで企業を選択する周りの連中に俺は嫌気がさしたのであった。

しょうがないので俺はこの年の秋頃から進学を検討することにした。ただし、もし来年バンダイから求人が来るようであれば先生の指図無しにそっちへ行こうとも考えていた。

最初に俺がオープンキャンパスで訪れたのは「静岡理工科大学」だ。愛野にあり、通学面では高校より近い。特にこれといって見たいものは無かったので大学というものがどんなところなのかを俺はそこで学ぶことにした。しかし、そのオープンキャンパスで俺は大学に対してトラウマを持つのだった。

駅から大学まではバスが迎えに来てくれる。その大学はレベルこそ低いものの、県内ではそこそこ名の知れた大学なのでさぞかし多くの人が見学に来るだろうと俺はバスのホームで考えていた。だが、あろうことかバスに乗車した客は俺一人だけだった。不安に苛まれながらも大学に着けば誰かいるだろうと俺は自分に言い聞かせていた。

揺られることおよそ15分、バスは大学に到着した。その時俺は自分の目を疑った。だだっ広い大学に見学に来た客は俺含め5人程度しかいなかったのである。誰もおらず明かりもついていない大学を見て俺はホラー映画のセットだと勘違いするほどだった。

なんだかんだ見学ツアーは一通り回ったが、興味がそそられるものは何も無かった。「本当に大学って楽しいのか?」そんなことを思いながら俺は誰一人いない広い食堂で定食を食べるのだった。

結局午後も何が起きるワケもなく1日が終わった。大学に大きな不信感を持った俺は二度とオープンキャンパスになんか行くもんかと思った。

そして数か月後、クラスのK田が「神奈川工科大学」のオープンキャンパスに行くということを小耳に挟んだ。大学にはもう行きたくなかった俺だったが、何かしらアクションを起こさないとまた担任に色々言われるので仕方なく俺もそこへ行くことにした。

神奈川工科大学は前回のクソ大学と違い、見学に来る客はたくさんいた。しかも、大学内はとても綺麗で好印象だった。そこは情報系に富んだ大学で、大手ゲーム会社にも何人かの学生を排出しているらしい。授業概要を聞いた俺はここに行くのもアリなんじゃないかと少し思った。

ただ、俺の印象とは裏腹に親はあまりいい顔をしなかった。「なんとなくゲームが好きだから」こんなフザけた理由で子供を大学へ行かせるもんかといった感じだった。そりゃそうだ、そんな奴がそこへ行ったってマトモな企業へは行けはしないだろう。俺の進路選択は振り出しへ戻ってしまった。まだまだ俺の戦いは続くのである。

高校生時代(17歳)Cパートへ続く

 

はろペン自伝 3部 その3

第8章「高校生時代(17歳)Aパート」

カギ校、というか工業高校は基本的に進級してもクラス替えを行うことは無い。なぜなら各クラスは学科で分けられているため、受けている授業もそれぞれ変わってくるからだ。しかし13HR、14HR、そして俺たち15HRは「Ⅱ類」という1つの学科で統一されていたためその3クラスのみはクラス替えがあった。

2年生になると先述した3クラスは「ロボット工学科(F科)」「電子工学科(D科)」「情報システム科(J科)」と名前が変わる。俺は迷わずF科を選択した。これにはいくつか理由がある。

1つは卒業したアニペンがJ科だったことに関係する。俺がどこに行こうか考えていた頃、アニペンは俺に「どーせお前のことだから何も考えず俺の学科を選ぶんだろ」と小馬鹿にしてきた。頭にきた俺はこの時絶対にJ科だけは選ばないと決意したのだった。

もう1つはロボット工学科そのものがエリートという印象が強かったからだ。実際、3学科の中では例年頭が良いやつが多い傾向にある。そこに入れば進路において何かと都合がいいだろうと俺は考えていた。

というわけでロボット工学科を選んだ俺だが、クラスの雰囲気は今1つという感じだった。いわゆる陰キャが多かった当時のF科はそれまでの15HRと比べ盛り上がりに欠けていたような気がした。

最初にそれを実感したのは5月にある「ホームルームデー」だ。なんだかダッサイ名前だが要はただの遠足だ。この年俺たちのクラスは鎌倉へ行った。行先が完全に担任任せなのに対し、鎌倉になったことは当たりだと思うかもしれない。俺も鎌倉へ行くことは初めてだったのでワクワクしていた。ただ、班は壊滅的といっていいほど酷かった。

班員は自由に決めてよかったので、俺は最初に15HRで仲の良かったK心君を呼んだ。これは良かったのだが、問題なのはK心君についてきた連中だ。そいつらは感情が無いといっても過言ではない奴らで、どこに行きたいか、何をしたいかなど班長の俺に一切言ってこなかった。結局、その日の行動は全て俺任せとなってしまった。

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プライバシーの関係で顔は見せられないが、この時の表情はマジで作り笑い感が凄いものとなっている。

その後すぐに体育祭があったのだが、感情が無いのはその他の奴らも同様だったようで応援席にいたF科は常に沈黙状態であった。ただやっぱりそこはF科というか全学科の中でも勉強面に関しては出来る奴が多かった。この時期あたりから学校生活<部活に俺の心情は変化するようになった。

そして8月、この時の三者面談で俺の将来設計が大きく狂わされたのである。

担任は超現実主義な人物で、夢溢れたクラスの連中を片っ端からぶった切っていた。その被害は俺にも及び、俺が1通り将来の夢を述べたところでこう言われた。「夢ばっかり語っていてもしょうがないでしょ」あまりにも直球だったその言葉にママペンも言葉を失っていた。

バンダイに行きたいことは止めないが、それ以外に何もないのか?という問いに俺は何も言い返せなくなった。他に就きたい企業は本当になかったし、正直工業自体に嫌気がさし始めていた俺はこの時初めて進学というものを意識するようになった。

話は少しそれるが、工業高校には当然工業実習なる授業が存在する。週1回2時間のその授業は好きな人にとっては楽しいのだろうが、俺にとっては地獄の時間だった。はっきり言って楽しくなかったのである。この授業を通して分かったことは”俺は工業に向いていない”ということだけだ。

高校生時代(17歳)Bパートへ続く

 

はろペン自伝 3部 その2

第7章「高校生時代(16歳)後半」

1年生の夏休みはほぼ毎日が部活だったため、俺の朝はいつも憂鬱だった。朝起きて電車に乗って道場に入り、どこかでやらかして怒られて帰る。過労とストレスで死ぬんじゃないかと考えていた毎日だったが、悪いことばかりでは無かった。それは8月某日、高校生活初めての三者面談だった。前回述べたが担任が顧問を務めていたため、どーせ部活のことでウダウダ言われるんだろうなと思っていたが、意外にも先生は俺の事を結構褒めてくれた。

「勉強については問題なし、部活もまぁ頑張ってるしこれなら大学も目指せるよ」なんて言ってくれたのは普通に嬉しかったのだが、俺の目標は大学に行くことでは無かったので俺は思い切ってバンダイに入社したいことを伝えた。

どうやらバンダイに入社するためには運動部であることが最も重要視されるらしい。たとえ頭が良くても気が利いた人物であっても運動部でない者にはそもそも挑戦する権利すら与えられないそうだ。先生は過去数年間に何人かの生徒をバンダイへ送っているようで、その中には弓道部もいたとのことだった。

俺はこの時初めて弓道部に入ってよかったと思った。同時にたとえ何を言われようとも部活だけは続けていこうとも思った。

この一件があったことで俺は部活にも多少身が入るようになった。不思議なことに、それに合わせて俺の技術も着々と進歩していくようになっていき、先生に怒られることも少なくなった。

夏休みを終え、2学期が始まった。この頃あった大きなイベントといえば文化祭だ。とはいっても俺たち1年生の役目は階段装飾のみで、当日に何かをするわけでは無いが俺は友人たちと率先して作業に取り組んだ。

クラスのA澤君がやたら絵が上手かったので、俺たちクラスは他より抜きんでたものを作ろうと画策した。そうなると当然時間もかかるのでちょくちょく部活も休むようになった。

多くの仲間たちが協力してくれたお陰で作業は順調に進んだ。多分、この頃が高校生活で一番楽しかった時だと思う。フォルダ内に当時の写真があったので貼らせてもらう。

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部活を休んだ分は放課後の自主練で補っていた。部活となると例の副顧問がいるので行くのは億劫だったが、自主練となれば先輩たちしかいないので弓道そのものを純粋に楽しみたかった俺にとってはうってつけの練習だった。俺の他にも部活を休んでいた仲間や先輩は結構いたので道場内は多少賑わっていた。

俺は時間いっぱいまで残っていることが多かったので、先輩たちと色々話すことも多かった。それまで一切といっていいほど関わりの無かった先輩たちだが、俺の渾身のモノマネ「頑張るビィ!!」がウケたのか、翌日からしつこいくらいに話しかけてくれるようになった。

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詳しくは知らないし知りたくも無かったが、この年は先輩たちの間で内ゲバがあったようで、弓道部の毎年恒例行事だった合宿はやらなかった。確かやらなかった分どこかの道場を借りて強化練習をするとかなんとか言っていたが、俺はそんなことより「干物妹!うまるちゃん展」の方が大事だったので兄貴の新居探しをイイワケに1人東京へ旅立っていった。当然皆にこのことは言っていない。ゴメンね。

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ちなみに3月、似たような理由で大会も休ませて貰った。お土産とか買ってきたので皆も許してくれた。

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1年生については多分こんなところだ。まだ将来の夢を諦めていなかった俺は期待を胸に2年生へと進級するのであった。

第8章「高校生時代(17歳)前半」へ続く