はろの毎日

日々の成長

はろペン自伝 3部 その12

第9章「高校生時代(18歳)Fパート」

紆余曲折あったものの、俺はなんとか大学に合格することが出来た。”バンダイに入る”という大きな夢を捨ててしまったことは残念だったが、どっちにせよこの年バンダイからの求人は来ていなかったので考えてもしょうがないことだ。俺はそれまで禁止していたプリチャンを久しぶりに(2週間ぶりに)打ち込むのだった。

入試を終えれば後はグダグダ学校生活を送ればいいものだと俺は思っていたのだが、現実はそうはいかなかった。学校側の決まりで進学者は全員1月に実施されるセンター試験に強制的に参加しなくてはいけないのだ。クラスの馬鹿真面目な進学者一同はそれに向けて放課後補講、参考書などで各自勉強に励んでいた。俺も最初は補講に参加していたのだが、合格したのにセンターを受けるなぞ馬鹿らしいと次第に思い始め、サボるようになった。

センター試験というと一見重要なイベントのように聞こえるのだが、実際は進学者が大学を選ぶ際、自身のレベルを確認するためのいち判断材料に過ぎないものだ。まぁ、こんなことを言えるのは俺が推薦入試で受かったからなのだが...とにかく受かった人間にとってそれは全くと言っていいほど価値の無いものなのだ。第一志望とか事前に書く欄があるのだが、俺は適当に「東京大学 理科Ⅲ類」とか書いた気がする。

センター試験は県大で行われた。県内各地の高校から多くの学生が訪れるため、雰囲気だけはいっちょ前にあった。俺の学生番号は2355Aだ。どこかの教育番組を彷彿とさせる番号だったので今でもよく覚えている。

とまぁやる気だけは一段とあった俺だが、勉強に関してはこれっぽちもやっていない、完全に舐めプだ。そのおかげで問題は何一つ分からなかった。

2日間に渡るセンターを終え、数週間後に結果が帰ってきた。大敗を喫した俺だったが、当然ながらそんなものには目もくれなかった。なぜならもう春休みが近づいていたからだ。

3年生の春休みは長い。2月頭~4月の2ヶ月間、俺はどう過ごそうかウハウハで考えていたのだが、ここにきて最悪の事態に巻き込まれるのだった。

事の発端は先生のある提案だった。F科の思い出作りとして「卒業文集」を作ろうという話が挙がったのだ。それ自体は何の問題も無い。個人的に良い考えだと思っていた。副委員の俺はこのプロジェクトの主体となり、何を載せるか事前に考えてこいと言われた。先生は「思い出に残るものなら何でも良い」と言っていたので俺は思いつく限りのアイデアを用意したのだが例によってチョー現実主義の先生はいちいち「それ面白い?」とか「それ必要ないよね」とか口を挟むのでこの時はマジで殺したくなった。

イデアを出せば叩かれる、周りに協力を要請すれば誰一人手を挙げない。こんな非情なことってあるだろうか。碌に進歩せず、結局俺は春休みほぼ毎日学校へ呼び出されるのだった。酷いときには朝から晩まで学校に残っていた。きっと同じ科の後輩は「なんでアイツまだ学校にいるんだろう」とか考えていたに違いない。時折作業をサボって学校のパソコンでやっていた「プーさんのホームランダービー」が救いだった。

f:id:haro2019:20210205002635p:plain

当時の写真

最終回へ続く