はろの毎日

日々の成長

はろペン自伝 1.5部 その1

2部は現在制作中です。ゴメンね。

「俺とガンダム

小2の春休み、俺は初めて秋葉原へ行った。といっても当時の俺はアニメオタクとかでは無かったため、特に目的も無く、その独特な街並みに魅了されながらフラフラ歩いていただけだった。その時、ふと立ち寄ったヨドバシカメラで俺はガンダムと出会った。ショーケースの中に展示されていたガンプラはどれもカッコ良く、欲しくなった俺はママペンにおねだりした結果1つ買って貰うことに成功したのだ。

初めて買ったガンプラは「劉備ガンダム」だ。TVアニメ「SDガンダム 三国伝」の主人公である。三国伝については自伝その3を読んで頂きたい。

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例外はあるが、SDガンダムのプラモデルの説明書には、「コミックワールド」というストーリー形式の漫画が掲載されている。特にこのシリーズの場合、キャラの詳細やモデルとなった機体など結構細かく紹介されていた。そこから俺のガンダム愛は加速していったのである。

同年だったかは覚えていないが、当時、東静岡駅前に実物大ガンダムが展示されていた。何回か行ったが、リアルなガンダムにはその頃の俺はまだ足を踏み入れていなかったため、なんとなくで会場を歩いていた。今となっては本当に勿体ないことをしたと思う。

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リアルなガンダムに初めて触れたのは同年冬にツインメッセで開催されていた「クリスマスフェスタ」だ。現在でも毎年12月に行われている。

今では下火になってしまっているが、当時、バンダイブースは広く設置されており、クリスマスフェスタというよりは静岡ホビーショーに近い感じだった。歩くのに疲れた俺は、大型シアターの前に置いてあったパイプ椅子に腰かけたのだった。休憩すること数分、立ち上がろうとした寸前に目の前のモニターであるアニメの上映会が始まった。

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それは「模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG」第1話だった。ガンプラ30周年を記念して製作された、全3話のOVAだ。それまでフィクションの兵器として利用されていた「ガンダム」を「ガンプラ」という視点から新たに制作されたそのアニメは当時の知名度こそ低かったものの、徐々に市民権を得ていくのだった。特に1話はバンダイホビーセンター周辺が戦場として利用されているため、以下のシーンにピンときた方もいるだろう。

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カッコよさと可愛さを両立させたSDガンダムとは違い、リアルなガンダムが激しい攻防戦を繰り返すその描写に、気が付いたら俺は夢中になっていた。終わってから早速、俺はリアルなガンダムに足を踏み入れてみようと思った。同時にこの時俺は「バンダイに入社したい」という大きな夢を持つようになったのだが、この夢がのちに残酷な結末を辿るのだった。詳しくは「高校生時代」で話す。

その後、BS11で「機動戦士ガンダムSEED」の再放送が始まった。俺とアニペンはリアルタイムで毎話楽しみに見ていた。ちょくちょくお色気シーンがあったので、エロを見慣れていなかった当時の俺はドキドキすることも多かった。

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親も時々見ていたらしく、後日キャラの名前を口に出した時はちょっと驚いた。

当時、ガンダム=大人が見るアニメという認識が周囲にはあったため、俺以外に興味を持ってくれる人物は少なかった。しかし、同じクラスのS君はガンダム含め様々なロボットアニメに詳しかったため、すぐに友達になった。どうやら彼の父親がガンダム世代で、その影響を受けたらしい。

ガンダムについての知識は俺の方が持っていたが、彼は「マジンガーZ」や「ゲッターロボ」など多くの昭和ロボットアニメを俺に教えてくれた。これが後に「スーパーロボット大戦」を俺がやり始めるキッカケとなった。

難解だったストーリーも見返していくうちに理解し、今ではほぼ全ての作品を見つくした。とはいえこの世界は結構複雑で、俺の知らないことがまだまだ沢山存在している。これからも俺の熱は加速していくことだろう。

最後に俺の一番好きなガンダムを紹介しようと思う。それは...

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ナイトガンダムだ。

 

はろペン自伝 その6

第4章「小学生時代(12歳)」

 小学校の生活も残すところあと1年となった。クラスの連中は馬鹿な奴が多かったが、それでも1年前に比べれば静かな方だ。俺の気に入らなかったヤツら、いわばサッカーグループはこぞって別のクラスへ行き、6年3組は明るく楽しい毎日を過ごしていた。

担任は当時珍しい「男性」で、ぷっくり膨らんだ頬から俺たちは「アンパンマン」と呼んでいた。超が付くほど感情的な先生で、泣き出す日もあれば怒鳴る日もあった。独特な人物であったが、なんだかんだ周りからは好かれていた。

6年生は行事の数こそ少ないが、俺含め皆は冬のあるビッグイベントに日夜胸を躍らせていた。そう、修学旅行だ。俺たちは1泊2日で東京へ向かった。

国会議事堂、スカイツリー、お台場...と様々な場所を回ったが、一番印象に残っているのはなんといっても東京ディズニーランドだ。ちょうどその日は園内がクリスマス仕様になった時だったらしく、平日ながら人で溢れかえっていたのはよく覚えている。パークについたのは夕方で、本来ならば明るいうちにシンデレラ城の前で班の写真を撮ることが決められていたのだが、行列で時間を食わされた俺たち班は暗闇の中写真を撮った。結果誰が誰だかわからない写真となってしまったが、それも今となってはいい思い出である。

当時こそ東京=異世界という印象を抱いていた俺だったが、まさか数年後、年に2~3回のペースで通うようになるとはこの時思ってもいなかった。今ではスカイツリーなんて見たところで何も感情は湧かないだろう。

修学旅行を終えれば待っているのはただ1つ、俺たちの卒業式だ。当日は雨が降っていたため、少し残念だった。確か入学式も雨だったような気がする。例によって担任はガチ泣きしていたが、正直俺は泣くことは無かったし、悲しいとも思わなかった。恐らく皆もそうだろう。何故なら、ほとんどの生徒が中学でもお世話になるからだ。おまけに中学校は小学校と大して距離もなく、「また今度ね~」といった感じで卒業式は幕を閉じた。

色々あった小学校生活だったが、今振り返ってみるとどれも(一部例外有り)いい経験だったんじゃないかなぁと思う。

第2部へ続く

はろペン自伝 その5

第3章「小学生時代(10歳~11歳)後半」

すーぱーそに子」それは株式会社ニトロプラスが2006年に本社をアピールするため制作した、いわばマスコットガールだ。彼女は俺自身のアニメオタク史を語るにあたって外すことはできない重要人物なのだ。

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彼女と俺が出会ったのは近所にあるゲーセンのUFOキャッチャーだ。当時、俺たちグループはDCD「グレートアニマルカイザー」をプレイするためしょっちゅうゲーセンに通っていた。とはいっても俺自身それに興味は無かったため俺は店内を一人闊歩していたのだった。ある時、ふと真横に顔を向けると”彼女”はいた。瞬間、俺の心臓は漫画のように「ドキッ!!」と脈動し、暗がりの店内で柔和な表情を浮かべていた彼女の姿は俺の脳裏にびったり張り付いたのだった。俗にいう「萌えキャラ」を見慣れていなかった俺はどうしても彼女のことが忘れられず、買ってもらった3DSで彼女の画像ばかり眺めていた。

小4、小5は多様なホビーが俺たちの間でプチブームを巻き起こした。ペンプレ、ベイブレードダンボール戦機、デュエマ...どれもキッカケはコロコロだ。先ほども触れたが、俺はこの頃3DSを買ってもらった。コバルトブルーのかっこいいモデルで今も愛用している。

当時、皆がやっていたソフトといえば「モンスターハンター」だ。詳しくないので何のやつかは分からないが、とりあえず3DSのやつだ。最初はPSPを持っている連中の中でしか流行っていなかったが、気が付いたら3DS版が大流行していたのだった。馬鹿かってくらいに流行ったので、俺も親におねだりしたがダメだった。ちなみに原因は値段とかそういう単純なものではない。

読者の皆さんはゲームのレーティング審査というものを知っているだろうか?パッケージの端に「A」とか「B」とかついているアレである。要は対象年齢だ。アルファベットが高位になるに連れ、対象年齢も上がっていく。例えば「B」ならば「12歳以上対象」だ。(「A」は全年齢対象)普通の人間ならそんなもん気にすることはないだろうが、我が家ではパパペンがやたらそれにこだわっていた。モンハンのレーティング審査は「C」つまり15歳以上対象だ。当時俺は11歳、対象には含まれていなかった。買えなかったのはそれが原因だ。友達は皆買ってもらっていたのに流石にそれは理不尽だと思った。

皆のご厚意で仲間の輪には入れてもらっていたが、通信で盛り上がっている中1人「スーパーロボット大戦」をやっているのはなんだか気が引けた。(実はスパロボの審査は「B」だったのだが、ママペンと一緒に買いに行ったためその点はスルーしてくれた。)

前回言い忘れていたが小4の冬、鈴木家は現在の家に引っ越した。憧れの一軒家だ。それまでのボロアパートと違い、俺専用の部屋や二階もあり、初めて中に入った時は感動したものだ。少し学校から遠くなってしまったが特に気にすることはなかった。不満点を上げるなら、ご近所の関係がギクシャクし過ぎてる点くらいだ。


第4章「小学校時代(12歳)」へ続く。

はろペン自伝 その4

第3章「小学生時代(10歳~11歳)前半」

俺が基本”小学生の思い出”として話題にするのはこの章、つまり小4~小6時代だ。俺自身の記憶力についてもあるが、それだけこの3年間はハチャメチャな時期だったといえる。

小4になった俺はというと、クラスの友人たちと絵を描いたり自作のトレカを作ったりして盛り上がっていた。絵とはいっても、芸術的な絵やアニメチックなイラストではなく、至極単純な、コロコロコミックに出てきそうな絵だ。クラスの皆も俺の絵を結構気に入ってくれていた。

4年生にもなると行動範囲が徐々に広くなっていくわけで、放課後は家から少し離れた「SL公園」で遊ぶようになった。そこは園内に「子ども館」という施設があったため、俺たちは雨の日でも公園に集まっていた。古ぼけた施設だったが、そこで働くおばちゃんたちが優しかったので個人的には好印象だった。

小4の生活を一言で表すなら、「平和」と俺は言うだろう。それほどこの1年間は周りの友人たちに恵まれていた。そう、この「1年間」は...

2012年。俺は5年生になった。周りの連中は少しやかましいのが多かったが、俺は特に気にせず去年同様新たな友人たちと絵を描いていた。意外かもしれないが、その友人の中には”女の子”もいた。どうだ、羨ましいだろう。

この年出来た友人はいわゆる悪友というヤツで、俺はそれまで持っていた「真面目」という自分の殻を破り捨て、学校中を走り回り、合同のエロ本を仲間内で書き、放課後に友人たちのみでアピタのゲームコーナーで遊ぶ日々を送っていた。当時、大人を連れずにアピタへ行くことは学校で禁止されていたため、最初は結構戸惑った覚えがある。今思えばどれもしょーもないことだが、当時の俺はそれで満足していた。ちなみに今あげた事件すべてに以前紹介したK君も関わっている。

6年間で一番馬鹿をやっていた時期でもある小5だが、楽しい日々ばかりでは無かった。

俺のクラスに1人、どうしても気に食わないやつがいたのだ。本当は本名を晒したいけど何かあったら嫌なので名前をHとしておく。

Hは3年だったか4年の時に転入してきたヤツで、同じクラスになって初めて会話をした。正確は荒っぽく、ドラえもんでいうところのジャイアンみたいな存在だった。外見はどちらかというとスネ夫に近かったが。他人を笑いものにし、時に暴力を振るうソイツは最初こそ皆からの支持を集めていたが、時が経つに連れ周りからの信頼も失せていった。当然の報いである。

5年生は全学年を通して最も行事の数が多い年だった。夏は朝霧高原で宿泊訓練、秋は陸上競技会、合唱コンクール、文化祭...もっとあったかな?

特に陸上競技会は俺が50m走の選抜走者として選ばれたためか今でも印象強く残っている。俺は足に自信があるワケでは無かったが、本来の走者であるN君が短距離はどうしても無理だということでなぜか俺が代理人として抜擢されてしまったのだ。その代わりというか、N君は長距離の方を走った。ルール上、短距離と長距離は同じ人物でないとダメだったような気がするが果たしてあれは良かったのだろうか。

ちなみにこの年は俺がアニメオタクとして目覚めた年でもある。そう、全ての始まりはあの日、ゲーセンのUFOキャッチャーで見かけた「すーぱーそに子」のポスターだった...

第3章「小学生時代(10歳~11歳)後半」へ続く。

 

 

はろペン自伝 その3

第2章「小学生時代(7歳~9歳)後半」

2010年(小2~小3)は俺の趣味が次々開花していった年だった。まずなんといっても欠かせないのがこの年30周年を迎えた「機動戦士ガンダム」シリーズだ。ガンダムとはいっても当時俺が好きだったのは「SDガンダム 三国伝」で、ダブルオーとかSEEDには特に興味は無かった。秋葉原ヨドバシカメラで展示してあった完成品を見たのがキッカケである。

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SDガンダム 三国伝」とは、中国の物語「三国志」を舞台に、ガンダムと化した武将が戦いを繰り広げる活劇のことである。ここから三国志そのものにも俺はハマるようになった。無論、他のガンダム作品もこの後見るようになった。

これ以上のことは話すとキリがないのでまた別の機会に設けようと思う。

次に俺がハマったのは「神羅万象チョコ」だ。水泳教室の帰りに買ってもらったのがキッカケだった。「神羅万象チョコ」とは、ウエハースチョコとカードがセットになった100円菓子のことである。わかりやすく言えばビックリマンみたいなものだ。余談だが、当時俺はビックリマンも集めていた。

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神羅万象チョコ」は結構マイナーなお菓子だが、学校で集めている人が割といたことには驚きだった。その中でも自分はキラカードの所持率が高かったため、よく友達に自慢したものだ。

最後に、俺は「遊戯王」にも熱中していた。これに関してはもっと前からやっていたような気がする。親戚、アニペンが主な対戦相手だった、というかそれしか周りにやっている人はいなかった。ルールとかは良くわかっていなかったため、(今でも分からないが...)なんとなくノリと勢いでやっていたのだ。アニメは「遊戯王5D's」から見始めたが、静岡の放送局では中盤で打ち切りになってしまったため、長年後半部分を見ることが出来なかった。

小3になると友達もさらに増えた。今いる友人たちは恐らくこの頃に出会ったものがほとんどだろう。当時の俺はオフザケ真っ盛りで、プールが終わった後、パンツ一丁でフランキーのモノマネをしたことがあった。担任の先生が笑っていたのはよく覚えている。

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そういえばこの頃、平日夕方5時半からワンピースの再放送がやっていた。俺はママペンの影響でそれ以前からアニメは見ていたが、周りはこの再放送からワンピースを知ったようだった。登場人物のモノマネをしている児童をあちこちで見た記憶がある。

話は重くなるが、この年に俺の祖父が亡くなった。パパペンのパパペンだ。俺は葬式というものに初めて参加したため、目の前で亡くなった祖父を見た時「もしかしたら起きてるんじゃねぇかなー」なんて考えていた。パパペンや親戚のおじさんは泣いていたが、「死」というものが良くわからなかった俺は特に泣くことはなかった。

しかし、一番衝撃的だったのは葬式の際、参列者の中に俺の理科の先生がいたことだった。血縁者ではないが、ちょっとした知り合いだったらしい。

年が明けて2011年。この年を代表する出来事といえば忘れもしない「東日本大震災」だ。地震が起きた瞬間、3年2組はちょうど帰りのHRをやっていた。静岡は震源地からだいぶ離れていたせいか、大きく揺れた感じはしなかった。まぁ県民からしてみれば、地震なんてそこまで珍しいものでもないので特に気にすることは無く、俺は日課の「しまじろうのヘソカ!」を見るために急いで帰宅した。当然だが家に帰るとしまじろうなんてやっていなかった。ショックだった。

第3章「小学生時代(10歳~11歳)前半」へ続く

はろペン自伝 その2

第1章「幼稚園時代(3歳~5歳)後半」

ここからの内容は園内のことでなく、俺自身の当時の趣味について話そうと思う。

早速だがこれを読んでいる10代~20代の皆さん、「キーボッツ」はご存じだろうか?

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「キーボッツ」とは上の写真のような子供向け玩具のことである。腹部にある鍵穴に専用の鍵を差し込むことで四肢が飛び散ることをウリにしたなかなか恐ろしい玩具で、当時の俺はこれにドハマりしていたのだった。今思えば、これが後にガノタになる前触れだったのかもしれない。

年長になると、ついに念願だったDSを与えられた。どうやらパパペンが会社のイベントで貰ったものらしい。始めて買ったソフトは「マリオvsドンキーコング2 ミニミニ大行進!」というものだ。何故これを選んだのかは記憶にないが、たいして面白くなかったことだけは鮮明に覚えている。

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その他、俺はウルトラマンにも熱中していた。正確には現在進行形で熱中しているという方が正しいだろうか。ウルトラマンZは神作でした。当時、「大怪獣バトル」というDCD(データカードダス)があり、アニペンと一緒によくプレイしていた。100円を握りしめ、ゲームコーナーに向かう姿は今も昔も変わらないのである。詳しくは「高校生時代」で話す。

ただ、このウルトラマンがキッカケなのかはわからないが、当時の俺は「巨大娘」というかなり特殊な性癖を覚えてしまったのだ。今でも好きなジャンルだが、あまり認知されていないことが悲しい。

まぁなんやかんやで楽しい3年間を過ごし、さっさと卒園した俺はついにピッカピカの一年生になったのである。

第2章「小学生時代(7歳~9歳)前半」

俺の家(当時)から徒歩10分、比較的近いところに小学校はあった。幼稚園同様老朽化が酷く進んでいたため、現在新校舎が建設されている。小学校の周りは市内でもかなり栄えていた方で、マンモス校とまでは言わないが多くの児童が通っていた。

そんなわけで俺にもたくさんの友達ができ、毎日放課後には近所の公園で日が暮れるまで遊んでいた。その中の一人、K君は小学校~高校まで全て同じ学校で、クラスも被ることが多かった。自分で言うのも変だが、結構仲は良く、中学の頃女子にホモ疑惑をかけられたこともある。まぁ小中と修学旅行で同じ部屋で寝泊まりして、部活も同じでポジションも同じなら疑われても仕方ないか…?遊んだ回数も一番多いし。

習い事は体操、水泳、英会話をやっていた。別に好きというわけでは無かったが、なんだかんだでどれも6年生までやり遂げた。水泳教室はその熟練度でクラス分けされており、俺は自慢ではないがその中の最上位の階級にいた。基本的な泳法なら今でもできるはずだ。あと2つは特にコレといった思い出はない。つまらなかったからネ。

1~2年の記憶は幼稚園同様そのほとんどが欠落しているためこれ以上書くことはないが、2年生の春休み、俺は現在の俺自身の一部を構成するといっても過言ではないある1つの作品に出会った。それこそ「機動戦士ガンダム」だ。

第2章後半へ続く

 

 

 

はろペン自伝 その1

2021年。人類はコロナウイルスという大きな敵を相手に今もなお奮戦している。医療従事者の負担も日に日に増していくばかりだ。これから先日本は、いや世界は大丈夫なのか?多くの人がそのような疑問を抱いていることであろう。

そしてこの年は自分にとっても重要な1年である。なぜかって?今年は僕が20歳、つまり成人になる年だからだ。これを機に自分の今までの人生を振り返ってみようと思う。

 プロローグ

2001年7月29日。静岡県F市の病院で俺は産声を上げた。俺の母(以下ママペン)は以前に兄貴(以下アニペン)を産んだ経験があるからか、出産するにあたって大きな苦痛はなかったらしい。ちなみにこの日は第19回参議院議員通常選挙があったようで、政治的に見れば結構重要な日だったそうだ。

先ほどちょろっと出てきたが、ここで俺の家族構成について紹介しようと思う。

まず最初に紹介するのは俺の父ことパパペンである。現在は派遣会社で働いており、これといって大きな特徴もないごく普通の父親だ。

次に紹介するのはママペン。つまり俺の母だ。介護施設で働いているせいか、なんだか毎日大変そうだ。最近は鬼滅の刃にハマっている。ママペン曰く、好きなキャラは宇随さんと珠世さんらしい。なんでだよ。

最後に紹介するのは俺の兄ことアニペンだ。俺とは2つ年が離れていて、現在は一人暮らしをしている。兄弟だからか、結構好きなものが被ることが多いが、食に関しては違いが顕著に表れている。例えば、俺はドクターペッパーが好きだがアニペンは嫌いらしい。これを読んでいる皆さん、当然ドクペは好きですよね?

俺の家族は俺含めこの4人で構成されている。金持ちではないが、特に貧乏ってワケでもない。ごく普通の一般家庭である。

さて、自分の話に戻るが、誕生~幼稚園入園までは当然だがほとんど記憶がないので割愛させてもらう。

第1章「幼稚園時代(3歳~5歳)前半」

静岡県S市、都会でもなければ田舎でもない、そんな街に俺は住んでいた。幼稚園も多少距離があるものの、同市にある。家から4~5㎞離れており、周りが山に囲まれた自然豊かな場所にその幼稚園はあった。

...はっきり言って幼稚園に関しても憶えている内容はごく僅かだ。多少脚色があるかもしれないがそこは勘弁してほしい。

今でこそその幼稚園は改装されたため、とても綺麗になってはいるが、当時は老朽化が酷く、子供ながら「汚ねぇ幼稚園だなぁ」と感じていた。

個人的に印象に残っている出来事は「近所の山へお散歩」と「お泊り保育」である。この章ではこの2つの出来事について話をしよう。

まず「近所の山へお散歩」。先ほど紹介したが、幼稚園の周りは山に囲まれていたため、多くのハイキングスポットが点在している。その中で俺たちがよく登っていたのが通称「トトロの山」である。大人になった今ならばその山とジブリ作品「となりのトトロ」は一切関係なく、ただの子供騙しであることは分かっているが、子供の頃はここが作品のモデルになった場所でワンチャントトロにも会えるのではとガチで信じていた。

その山は道もしっかり整備されており、景色も良かったため、卒園後に再度登ろうかと足を運んだが、猪が出たとかなんとかで登れなくなっていた。悲しい。

次に「お泊り保育」。名前の通り家を離れ、友達と1泊2日を過ごすというものだ。ただこのイベントの最中、俺自身に最大の悲劇が訪れるのだった。

それは忘れもしない川遊びの最中に起こった。頭が妙にクラクラしていた俺は先生の所へ向かい、体温を測ってもらった。結果は案の定熱らしく、俺はすぐに家へ帰されたのだ。

熱といっても微熱らしく、夕刻皆の所へ戻ったが、その日のイベントは全て終えてしまったようで結局その後は風呂へ入って就寝しただけだった。

翌日、朝食はみんなでおにぎりを作った。その後は大した企画も無かったようで、思い出も残せないまま俺は帰宅した。

ちなみに俺は3年間無遅刻無欠席の皆勤賞である。何故よりにもよってその時だけ熱が出たのか未だに疑問である。

第1章後半へ続く